始めに

コスモポリタンを公蚀するノィヌランㇳにずっお、衚珟の自由は、我々の最高の財産の䞀぀である。これらの財産がなかったなら、珟圚の我々の文化の基盀は圢成されえなかったであろう。

今日、我々はふ぀う、メディアを通じお、本や新聞によるよりもはるかに倧量の情報の流れず亀換に觊れおいる。

ずころが、䞖界の少なからぬ諞囜で、メディアの情報源は操䜜されおいるばかりか、最悪の堎合、切り貌りさえされおいる。

この読曞䌚が、我々の自由がどれほど貎重か、それにもかかわらず、どれほど危険にさらされおいるかを意識し、この自由ずいう財産を守るためには、著述家もっずも広矩のに、真実をありのたたに䌝える矩務があるずずもに、自由で開明された垂民䞀人䞀人が真実を知る暩利を䞻匵しなくおはいけない、ずいうこずを自芚する機䌚になっおほしい。

「トむチャヌ・メルクヌル」の創刊者、クリストフ・マルティ―ン・ノィヌラントはこの文章を―幎に曞いた。今日、䞖界䞭のメディアの動向ず政治情勢の䞭で読むず、この文章の衝撃力ず緊急性があらためお匷く感じられる。

Mikiko Nomura


クリストフ・マルティヌン・ノィヌラント

コスモポリタン結瀟の秘密ず

著述家の暩利ず矩務に぀いお

わたしは䞀介の無力な䞖界垂民にすぎず、党䞖界の舞台で䞊挔される、重倧な囜家間の行動の悲喜劇ないし喜悲劇に倧圹も端圹も挔じるものではない。それでもわたしには、䞀人の人間であるずいう誉れがあり、したがっお人間にかかわるすべおの物事に、倚かれ少なかれ関心を抱かざるをえないのであるから、この䞊なく興味深く、比べるものなく重芁なこのドラマにも、幕開けからきわめお泚意深く熱烈な芳客圹を挔じずにはいられない。

わたしが支持を公蚀しおいる結瀟のおかげで、人間の暩利ず矩務に぀いおも、わたしはかなり独特な考えを抱いおいる。

あるコスモポリタンの蚀うずころでは、自然は人間䞀人䞀人に独自の玠質を䞎えおおいたのであり、さたざたなこずがらが関連しあっお、その玠質が展開しお、その人が将来なるべき存圚が実珟するために倚かれ少なかれ奜適な環境に、䞀人䞀人を眮くこずになる。ただし自然は、自分の玠質を育お完成させるこずは本人に委ねおいる。自然が䞍十分な、さらには欠陥のある状態で䞎えたものを改良し完党の域に高めるこずが、人間に䞎えられた圹割である。それはその人自身の利益でもあるのだから、ある意味で限界のない、自分なりの完党性にできる限り近づくよう努めるこず以䞊に倧切なこずのあるはずはない。

人間の生涯の蚈画は本人だけで決められるのではなく、䞖界の至高の統治者である神が、その人間をどのように甚いようず思われおも、喜んでそれに埓う心の甚意が求められるのであるから、人間の第䞀の矩務は、最倧限の有甚性を身に぀けるこずである。この意味の高床の有甚性を、それが蚓緎、勀勉、努力、根気、぀たりは我々自身の意志にかかっおいる限りにおいお、コスモポリタンは矎埳ずよび、その理想を物差しずしお人の䟡倀を評䟡する。以䞊に述べたこずから、䞖界垂民ず䞖界䜏民ずの盞違が明らかになる。䜏民は、すべおの人間のみならず、人間の䞋に䜍眮付けられる、すべおの段階の動物にも䞎えられる呌称であるが、この䞖界の垂民ず、もっず狭い、高玚な意味で、称しおよいのは、その人の根本的思想、信条が自然ずずれるこずなく合臎するこずによっお、有甚になりえおいる人間だけである。

コスモポリタンの結瀟のもっずも重芁な基本原則の䞀぀はこうである。すべおの圢成、発展、完党性ぞの前進は、自然で穏やかで、䞀瞬䞀瞬は芋お取れないような運動、逊分補絊、生長を぀うじお行われ、実珟に至るのでなくおはない。それが物事の道埳的秩序である。自然の正垞な進行に埓うなら、ずっず長い時間をかけお生じるはずのこずを、飛躍を重ねお短期間に匕き起こそうずするような、すべおの力ずくの手段、さたざたな力の均衡を突然乱すような、すべおの行動、ある事態を生じさせるために必芁十分な力の皋床が蚈算できず、必芁をはるかに超えるこずをしおしたう危険を招くような、すべおの激しすぎる働きかけ、芁するに、過床の熱意や䞀面的な考え方や過倧な芁求から生じる、平穏をかき乱す䜜甚はすべお、結局は䜕か良いこずをもたらすかもしれないずしおも、同時にそれず同じだけの善を砎壊するこずになり、偉倧なこずを目指すこずによっお、たいおいはもっず倧きい悪を招いおしたうのである。

コスモポリタンは、善いものをすべお善いずする、最高の善意を持぀ので、囜家の責任を担う人々の方策や行動を぀ねに賛矎、喝采するこずはできず、圌らの匱点、䞍埳、倱策、䞀貫性の欠劂などを鋭敏に芋お取り、真剣に䞍同意を唱える。芁するに、コスモポリタンは、憲法、立法、譊察、経枈、぀たり倧きいこずも小さいこずも含めお囜家経営の党䜓の欠陥を堎合によっおは、これらの欠陥を取り陀く手段をも芋抜き、欠陥が実際に取り陀かれるこずこそを、䜕よりも熱烈に望むのである。だが、コスモポリタンは利己的な、あるいは党掟的な動機から、たたは䜕かの口実を぀けお、瀟䌚の平穏を乱したり、䜕かを改良するために䞍法で暎力的な手段を甚いたりするこずは決しおない、ず信頌しおよい。

コスモポリタンが謀反、反乱、内戊の扇動に意図的に加わったこずは䞀床もないし、䞖界を改良するためであれ、この皮の手段を是認したこずもなく、たしお、これらを勧めたり、正圓化を䌁おたりしたこずなどない。コスモポリタンは、䞖界の珟状に満足できないずしおも、その結瀟の本質をなす矩務に埓っお、぀ねに冷静な垂民でいる。

コスモポリタンは、自分が䜏む囜家の法埋を、その賢明性、公正性、公益性が明らかであれば、䞖界垂民ずしお、すべお守り、必芁であればその他のこずにも埓う。

コスモポリタンは自囜民に奜意を抱くが、他のすべおの人々にも同様の奜意を抱く。祖囜の豊かさ、名声、重芁性を他の囜家に察する意図的な詐欺行為や抑圧の䞊に築こうなどず䌁おるこずはありえない。人間を宇宙の䞻圹ず認めるか、それずも偶然の無意味な玩具、目的も意味も脈絡もない、ただの倢ずみなすか、この䞡極端のどちらからも、コスモポリタンは同じく遠いずころにいる。圌らは理性の優䜍を信じる。人間は、組み立おられ呜を䞎えられた物質ずしお理解を超える力に䜿われる盲目の道具なのではなく、宇宙の埮小な存圚ではあっおも、思考し意欲を持ち、みずから掻動する䞀぀の力である、ず信じる。

抵抗は結瀟の矩務の䞀぀でさえあるが、ただし合法的な方法で行われるこずが条件である。理性が、そのさい䜿甚を蚱される唯䞀の歊噚である。このような性質の闘争では、防埡にも攻撃にも可胜な限りの知性、知恵、䞍屈、率盎、根気が瀺される。

ありずあらゆるこずをしおも、コスモポリタンの矩務を十分に果たしたずいう以䞊の䜕物でもない。

だが、優れた意芋を持぀人々や抑圧されおいる人々の先頭に立぀熱烈な指導者が、結果的に必ず囜家を動揺させるに違いない方法をずるずき、たた圌らの目指す改革を、それ自䜓の䟡倀より高䟡に、無数の人々の家庭の幞犏、豊かな暮らし、生呜を代䟡ずしお、買い取ろうずするずき、それを芋お取ればただちにコスモポリタンは身を匕く。そしお、すべおのこずに節床を呜じる理性の声が聞かれなくなるずきには、意に反しお損害を匕き起こす危険を冒す前に、むしろすべおの掻動から離れる。狂信的な党掟心の荒れ狂う運動、ほしいたたな軍事力の猛烈な戊いに螏みにじられるなら、䞀切は瓊瀫ずなり、人間性は䟮蟱されお解攟ず埩讐を求めるこずになるだろう。こうしたすべおをもっず良い蚭蚈図に埓っお再建する時が来るたでは、圌らは二床ず行動しないであろう。

コスモポリタンは䞖界垂民ずいう名称を本来の高貎な意味で名乗る。圌らは、地球䞊のすべおの民族を単䞀の家系の子孫ず、そしお宇宙を䞀぀の囜家ずみなす。他の無数の理性的な人々ずずもに、圌らもその囜家の垂民であり、そこでは各々が固有の仕方で自分自身の幞犏のために働くこずによっお、普遍的な自然法則のもずに党䜓の完党性を高めおゆくのである。

こうしたこず党䜓の秘密は、宇宙の非垞によく䌌た存圚同士の間に生たれる芪和性ず共感に、たた、真実、善意、誠実な心が高貎な人間を結び付ける粟神的な絆にある。

他のどんな人間瀟䌚よりすぐれた秩序ず調和をも぀共同䜓が生たれるための、これ以䞊匷力な絆を私は知らない。

「この結瀟の目的は、人間性を圧迫する悪の総䜓を、みずから䞍幞を造り出すこずなく、できるかぎり枛らし、䞖界の善の総䜓を、党力をあげお増し加えるこずである。」

コスモポリタンの䞻匵するずころでは、䜕䞀぀異論の䜙地のない統治圢態はただ䞀぀しかない。それは理性の統治圢態である。その本質は、理性的な民族が理性的な統治者ず理性的な法埋によっお統治されるこずである。

念を抌すたでもないであろうが、理性的ずいう語がここでは、その本来の意味で䜿われおいる。すなわち、理性が実際に働き、理性の正圓な暩利ずしお、人間性に含たれる動物的な郚分を完党に支配しおいる、ずいう意味である。

䞖界の幌児期ず蚀える倪叀の時代、理性は倧郚分、本胜ずしお働いおいた。人間は、経隓にかんしおはただ幌児で、感芚的で掻発、軜率で萜ち着きがなく、い぀も今の瞬間しか気にかけず、子どもらしく、未来のこずや、珟圚のこずの圓然ながら埐々にやっおくる結果を予想するこずはなかった。

倪叀の時代の民族の䞭に、自由の䟡倀を盞応に評䟡できるものはほずんどいなかったし、自由ず垂民的秩序、戊争の技術ず平和の技術ずを結び぀けお考えるこずのできるものはさらに少なかった。

時ずずもに、呚知の原因の、同じく呚知の効果が生じおくる。個別の技術ず科孊が、着想、掻動、たゆたぬ勀勉、競合から生じる競争心などが育っお急速に進歩したのに比しお、最高の技術、技術の王である、諞民族を立法ず行政によっお幞犏な状態にするずいう技術の方は、はるかに遅れおいる。

今なお、ペヌロッパの䞭でも比范的広く矎しい地方で、人間の持぀もっずも高貎な胜力が重圧の䞋に窒息させられおいる。長く続いた粗暎で暗黒な時代の、未熟な制床、無知、過誀が残っおいるのである。今なお、いく぀かの匷囜では王暩が論じられ、比范怜蚎されるこずはなく、垂民瀟䌚の基本法にのっずっお定められるこずもない。今なお、普遍的理性ではなく、唯䞀者の、あるいは暎力で暩嚁を手にした少数者の、しばしば極めお愚かしい知力ずぐら぀いお定たらない意思が法埋を䜜っおいる囜家がある。

「最悪なのは、我々がものを曞くこずによっお、ただ䞀人の砎廉恥挢がこの䞖から消えるこずもなく、我々のほうが呜を倱う可胜性があるずいうこずである。」

法の執行ずよばれるものは、倧郚分の囜々でなお、未熟で筋が通らず、時代ず状況に適合しない法埋によっお損なわれおいる。倚数の囜家でなお、垂民の財産、名誉、自由、生呜の安党ほど䞍確かなものはない。これがすべおペヌロッパのこずである

この䞀䞖玀の比范的短期間に、芞術、孊問、趣味、啓蒙、掗緎が数段階も高たった。この高みから過去の数䞖玀を芋䞋ろせば眩暈がしそうである。だがこれらの重芁で、しかも幞いなこずに、きわめお本質的な点においおさえ、ペヌロッパの珟状は我々の信じるずころが思い違いでないなら有益な革呜に近づいおいるようにみえる。

それは、独りよがりの反乱や内戊によるのではなく、冷静で揺るぎない、確固ずしお粘り匷い、矩務の䞊に立぀抵抗による革呜、激情ず激情ずの堕萜した栌闘によるのではなく、穏やかで説埗力のある、結局は抵抗できない、理性の優䜍によっお、実珟される革呜である。

すなわち、ペヌロッパを人間の血の海にしたり、火炎で焌き぀くしたりせず、人間に、圌らの本圓の利益、暩利ず矩務、自分の存圚の目的、そしおその目的に確実に誀りなく到達するための唯䞀の手段を教えるずいう、有益な䜜業ずなる革呜である。

以䞊述べおきたこずから明らかであろうが、コスモポリタンは、珟存の統治圢態を、氞遠に存続する「䞇人の幞犏の神殿」を建蚭するための足堎に過ぎないものであり、過去のすべおの時代は、ある意味で、この建蚭に携わっおきたのだ、ず考える。

専制政治は、コスモポリタンの考えでは、野蛮な統治圢態であり、それが長続きするためには、ペヌロッパの開明された諞囜民には想定もできないような状態ず条件が前提ずなる。だいたいが専制政治ずいうものは、ペヌロッパでは文化ず啓蒙以前の時代にさえ知られおいなかった。倪叀以来、野生の民族にずっおも、教育を受けたペヌロッパ人にずっおも、自由こそ根本原理だった。

理性の氞遠の法則、人間の本質である暩利を知りながら、この暩利を䞻匵、芁求する機䌚を諊めたり芋逃したりなおざりにしたりするこずは蚱されない。今日のペヌロッパ諞囜の建蚭者はすべお、自由な人々の先頭に立っお進んだのだった。

どのような政治䜓制䞋に暮らしおいようずも、人間が第䞀に芁求しなくおはならないもの、そしお頑匷な専制君䞻のみが人間に蚱すたいずする第䞀のものは、人間であるこずである。人間は奎隷であれば、人間でありえない。もっずも理性的な䜓制ず統治はゆっくりずした、だがそれだけ確固ずした足取りで、諞囜民に近づいおくる。その歩みを速めるこずができるのは、理性の可胜な限りの育成、基本的真理の可胜な限りの普及、そしお公衚するこずが個々の瀟䌚、囜家、人間の各䞖代を益するような、すべおの事実、芳察、発芋、研究、改良の提案、害悪ぞの譊告の可胜な限りの公開だけなのであるから、コスモポリタンは衚珟の自由こそ、これらすべおを成し遂げるために䞍可欠な、今日の真の、人間の守護神ずみなす。これを護るこずに、よりよい未来ぞのすべおの垌望がかかっおおり、これを倱えば、予枬も぀かない悪の長く恐ろしい継続を招くであろう。

旅行者がその途䞊で収集した芳察ず報告を、友人宛の、あるいはむしろ読者宛の、手玙の圢の曞物が非垞に倚く出版されおいる。旅行奜きな著述家やために手玙を曞く旅人にずっお自然な圢匏である、この皮の曞物ぞの読曞奜きな䞖人の欲望が日ごずに倧きくなっおいるからには、かなりの数の人々が、このような曞物は、著述家が自分の芳察、報告、刀断を公衚する際の資栌ず自由の限界を枬る、信頌できる物差しず芋なしおいるのだろう。

この物差しの尺床は以䞋にあげる真理に含たれおいるず思う。私が自信をもっお、これらを真理ず称するのは、私自身それを確信し、たた、ふ぀うに明晰で、物事をじっくり考えるこずのできる頭脳の持ち䞻には玍埗がゆくに違いないず信じるからである。

衚珟の自由は党人類の関心事であり、利益である。

ペヌロッパ諞民族が珟圚立っおいる文化ず開明の段階の高さは、おもに衚珟の自由のおかげである。この自由を我々から奪っおみよ。珟圚我々が楜しんでいる光はすぐに再び消える

であろう。無知はすぐに再び愚昧に倉わり、愚昧は我々を再び迷信ず専制政治の手にゆだねるであろう。諞民族は長く続いた暗黒時代の野蛮状態に戻るだろう。そのずき、人類の抑圧者がなによりも隠しおおこうずする真理を、あえお口にする者が珟れれば、異端者、反逆者ず呌ばれ、犯眪者ずしお眰せられるであろう。

 è¡šçŸã®è‡ªç”±ã¯ã€ãã‚ŒãŒè«žå›œæ°‘の暩利であるずいう理由だけによっおも、著述家の暩利である。そしお衚珟の自由は、理性的存圚ずしおの人間にずっお、人間の完党性を増倧するために䜕かしら圹立぀すべおのこずに぀いおの真の知識以䞊に重芁な利益はないずいう理由だけからしおも、人間の暩利である。孊問は人間の知力にずっお、我々の目にずっおの光に等しいものであるから、自然自身が我々に察しお定めた限界以倖の、どのような限界内にも閉じこめるこずはできないし閉じこめおはいけないのである。すべおの孊問の䞭でもっずも必芁で圹に立぀孊問、他の孊問がすべおそこに含たれる孊問は、人間にかんする孊問である。

人類固有の孊問察象は人間である。

 äººé–“にかんする孊問は、今埌なお長く、完党で明快な解決を目指しお努力しなくおはならない。その解決に着手し、掚し進め、぀ぎ぀ぎに先ぞ進むこずが人間研究の課題である。人間に䜕が可胜であるかを明らかにするためには、人間ずは実際に䜕であり、䜕をなしずげおきたかを知らねばならない。

 äººé–“の状態を改良し、その欠陥を陀去するには、どこが悪く、その原因が䜕であるかを、たず知らねばならない。

 ã—たがっお人間にかんする真の知識は根本的に歎史的である。

諞民族の過去ず珟圚の状態を远い、事実ず事件ずを結び぀けお、それらがどのように぀ながりあい、䞀぀のこずの圱響たたは結果が、どのように別のこずの誘因たたは原因になるかをたどる歎史。このように考えるなら、人間の歎史ずは、人間に起こったこず、぀ねに起こっおいるこずの蚘述にほかならに。どこたでも続く、䞀぀の事実の蚘述。それを達成する方法は、目を開けお芋るこず、そしお、芋るべきものを芋る機䌚を他の人よりも倚く持った人が、その芳察を他の人々に䌝えるこず以倖にない。

このような芳点から、船員、攟浪者、旅行者、歩行者、孊者、無孊者たちが無孊者にも芳察力があり、しばしば職業的な孊者より健党な目でものを芋るこずができるのだから曞いた、地理孊ず民族孊、぀たりは人間孊にかんする文曞を評䟡しなくおはならない。こう考えれば、これらの文曞の䟡倀が理解され、これらを倚数、人間孊のための公共文曞通に保存するこずの、人類党䜓、各民族、各囜家組織、各個人にずっおの重芁性が認識される。

目撃者は、その意思にかかわらず、ものの芋方を誀るこずがある。耳にしたこずを信頌できるず思う人に䌝達するずき、その情報が間違っおいたずいうこずもある。どれほど现心で鋭利な芳察者でも、すべおの人間同様、錯誀の可胜性を免れないし、重芁な状況を芋過ごすこずがありうる。

したがっお、ある時代の民族、囜家、颚習などを歎史的に描いた曞物が、真実を語ろうずする、どれほど玔粋な意図から出おいようずも、すべおの䞍正確を完党に免れおいるこずはほずんどありえない。ある人が経隓䞍足から、あるいは挠然ずした芳念や奜みのせいで、時に物事の芋方や刀断を誀るこずもありうる。だからずいっお、䞖人に有益な、あるいは将来有益になりうる曞物を、䞀切刊行しおはならないず結論しおは䞍合理であろう。

以䞊から蚀えるのは、曞物が述べおいるこずを自分のほうがよく知っおいるず思う人、あるいは著者の誀りを発芋し、蚂正できるず思う人には、そうする十分な資栌があるばかりか、そうするこずで䞖界に奉仕する、䞀皮の矩務さえある、ずいうこずだけである。

ずくに倧囜、わけおも我がドむツのように、きわめお倚様で異質な囜民が、蚈画的に組織されたずいうよりは、むしろ偶然に集たっお圢成された囜家組織では、珟状をできるかぎり粟確に知るこずが囜民にずっお重芁である。

囜家財政、譊察、垂民生掻、軍隊制床、宗教、颚習、公教育、科孊、芞術、商業、蟲業などの珟状、たた文化、啓蒙、人暩保護、職業掻動、向䞊意欲などが到達しおいる段階に、独自の光を投じるような曞物は今なおわずかしかない。この皮の曞物はいずれも高く評䟡されるべきであり、感謝に倀する。

自分の芳察から䞀冊の曞物を提䟛しようずする著述家に䜕よりも肝芁なものは、真実を述べ、䞀時の激情、先入芳、私的利害などの圱響を、報告ず意芋の䞭に入れないようにする、誠実な意志である。

著述家の第䞀の矩務は誠意ず公平である。この矩務を果たすための必芁条件はすべお、暩利でもあるのだから、率盎さもたた、このレベルの著述家にずっおは疑問の䜙地のない暩利である。著述家は真実を述べるこずを欲しなくおはならないし、そうするこずを蚱されなくおはならない。

したがっお著述家には、ある民族に぀いおの芳察を我々に䌝えようずするなら、芋たこずのすべおを語る完党な暩利がある。善いこずも悪いこずも、誉めるべきこずも非難すべきこずも。䜕かを隠したり、お䞖蟞で矎化したりしお、奜たしい面だけを描いた停りの画像では、䞖界の圹に立たない。

自分のあるがたたの姿を描かれたからずいっお、䟮蟱されたず思うわけにはゆかない。ある人物に察しお公開の堎で、その欠点を口にするこずを瀌儀は犁じるが、人間䞀般に぀いお、たたは、倧囜であれ小囜であれ、囜民ず囜家に぀いお語ろうずする著述家にずっおは、その瀌儀は矩務ではない。

ある囜民が、非難されるべきこずは䜕䞀぀なく、すべおの面から芋お完党であるず評䟡されたがるなら、それは䞍圓な芁求であり、䞖界の笑いものになるであろう。

䞇䞀、刀断力のある芳察者が、その囜民に぀いお䜕䞀぀批刀できない、などずいうこずがあれば、たしかに、非の打ちどころがないのであろうが。

君䞻が自分の品䜍ず職務にかんしおしかるべき感受性を持っおいれば、おべっかを軜蔑し、自分にずっお䞍愉快な真実を述べる勇気のある人物こそ誠実なのであるず認めるであろう。

「最良の領䞻は、領民のうちに最良の人間がいるこずを、最倧の願いずする。」

たしかに、そのような支配者なら、埌䞖が遠慮なく蚀うであろうこずを、それを聞いお、そこから利益を匕き出せるうちに、控えめに知らせおくれる人を悪く思うこずはないであろう。

  ãã“で、人間がものを考える力を持぀かぎり、ル゜ヌやノォルテヌルのような人、その他、知識階局に圱響力を持぀人々こそ、圌らの時代の創造者ずも本来の君䞻ずもみなされるべきであろう。

 ã“のような堎合に、党囜民たたは党瀟䌚からの敬意を求める方法は、瀌儀正しい衚珟で、誇匵したり䟮蟱したりからかったりせずに、圌らが気づいおいない偎面に぀いお語り、圌らの長所や耒めるべきこずのすべおにも觊れるこずによっお、公平性を蚌明するこずだけである。

  囜民や時代に぀いおの正しい知識を手に入れるには、䞻ずしお、それらが他ず違うずころ、その特城を知るこずが必芁である。特城は普通、完党さず欠点に同じように、いやむしろ埌者のほうにいっそう明らかに、芋お取れる。

適床であれば耒められる性質が、過剰であるばかりに欠点になるこずがよくある。たずえば゚レガンスの過剰が装食過倚になるように。この皮の欠点の指摘は䟮蟱ではなく、どこをどうすれば、もっずよくなり、賞賛に倀するようになるか、のヒントを䞎えるもので、感謝されおよい。

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「滑皜な欠点しか持たない囜はさいわいである。」

ある倧囜から別の、制床、囜民性、颚習が際立っお異なる倧囜に、たずえば軍事囜家から、平和ず平和の技術のおかげで豊かな囜に入った人は、䞡囜の盞違のすべおに気づきやすい。それがその人の目をもっずも匷く惹くからである。したがっお、その人が、䞡囜それぞれの特城を察比、比范したがるのは、たったく自然な成り行きである。

研究しおはいけない孊問の察象や、信じるに倀するかどうかを芋るために理性が調べおはいけない信仰箇条がないのず同様に、犁じたり、非垞識だず決め぀けたりしおよい、歎史䞊の事実や実生掻䞊の事実もたたない。

  å…šäž–界の目の前にあるものごずを囜家機密であるず䞻匵したり、倚数の人が芋聞きし感じおいるこずを、誰かが䞖界䞭に匘めたからずいっお腹を立おたりするのは、䞍合理である。

  ã‚³ã‚¹ãƒ¢ãƒãƒªã‚¿ãƒ³ãŒä»–の秘密結瀟ず異なる点は、隠すべき秘密を持たず、原則ず信念からしお秘密を䜜らないこずである。

  åœŒã‚‰ãŒã€ã©ã®ã‚ˆã†ã«è€ƒãˆã€äœ•を䌁お、どういう道を行くか、党䞖界が知っおよいのだ。

  仰々しい顔で人圢に服を着せたり脱がしたり、盲目の牝牛のたねをしたり針を隠したりするような者に、どんな知恵が期埅できるか、ず圌らは蚀う。

  ã†ã‚ã¹ã ã‘の理由を持ち出しお、衚珟の自由を気たたに制限するこずが必芁だ、ず停り䞻匵するこずも、同じく䞍合理である。著述家、曞店、印刷所の衚珟の自由に察しお、民法、刑法が定めおいる以倖の制限を課しおはならないずいうこずは、絶察に蚌明枈みである。すなわち制限されるのは、法治囜家においお、その囜で個人の自由がどれほど倧きかろうず、それを刊行するこずが犯眪ずされる曞物である。これは、こずがらの性質からしお、そうあらねばならない。

  ãŸãšã€è‘—名な個人、たたは人名を明瀺した個人に察する、民法で犁じられおいる、あからさたな名誉棄損を含むすべおの曞物。

  法埋に基づいお蚭眮されおいる圹所に察する反乱、暎動を明癜に煜動しようずする曞物。

  å›œå®¶ã®åŸºæœ¬æ³•に明癜に反する曞物。

  ã™ã¹ãŠã®å®—教、道埳、垂民生掻の秩序転芆を明癜に目指す曞物。すべおこれらの曞物は、どんな囜家においおも、囜家反逆、窃盗、謀殺同様、たしかに凊眰に盞圓する。

  前蚘の「あからさたな」、「明癜に」は決しお冗語ではない。これらの語の重芁性は、告発された曞物の凊眰盞圓性が完党にここにかかっおいるからである。もしも、任呜された怜閲官や民事裁刀官に、圌らの想像力、意芋、先入芳、知性の皋床、その曞物の䞻題にかんする知識の有無、感情、趣味などに巊右される結論のみに基づいお、䞀冊の曞物を裁くこずが蚱されるずしたら、断眪される心配のない曞物があるだろうか。

  å‹æ‰‹æ°—たたな怜閲がたかり通っおいる諞囜では、もっずもすぐれた曞物こそ、䞀番先に犁曞目録に茉せられるこずを、我々は経隓から知っおいるではないか。

  â‰ªæŒ¿å…¥

「戯曲が怜閲を受けるずしたら、どういうこずになるか、考えおみたこずがおありだろうか。どの䜜品が䞊挔できなくなるか。」

「ダントンの死」、「薔薇の名前」、「ドン・カルロス」、「ノィルヘルム・テル」、「リチャヌド䞉䞖」、「女教皇ペハンナ」、「神の代理人」、「春の目ざめ」、「矀盗」、「狂おしい䞀日フィガロの結婚」、「公然告発者」、「マクベス」、「マラヌサド劇」、「むンゎルシュタットの煉獄」、「アルトゥロ・りむの興隆」、「ビヌダヌマンず攟火者」、「ゞュリアス・シヌザヌ」、「ミパル・コヌルハヌス」、「悪魔の詩」、「革呜はいただ成らず」、「こわれがめ」・・・≫

裁刀官なり怜閲官なりに、犯眪的ずみなされおいる曞物の怜蚎をゆだねるずしよう。圌らが、それを刊行したこずで著者が眪を犯したずすでに決定しおいる曞物のみを犁じるずいうこずも、぀ねにありうる。

だがその内容に぀いお、叀いか新しいか、興味深いか取るに足りないか、有益か有害か、䜜者の論評は良いか悪いか、このような刀定は、読者以倖の怜閲官がしおはいけない。

たしお䜕かの口実を蚭けお、暩力で曞物を抑圧するなら、孊者共和囜の根本的暩利を䟵害するこずにならざるをえない。

孊問、文芞、印刷術は、アルファベットの発明以来なされた、すべおの発明の䞭でもっずも高玚で有益なものであっお、どこかの囜家の所有物ではなく、党人類の共有物である。

その䟡倀を理解し、受け入れ、育成、奚励、保護し、自由に、劚げるこずなく掻動させる民族は幞いである。自由こそ、これらに䞍可欠の芁玠だからである。

どんな人間の法廷にも、我々が享受できる知の光を、気たたに奜きなように定める暩限はなく、それは越暩行為なのであるから、゜クラテスやカントから、超自然的な啓瀺を受けた仕立屋や靎屋たで、誰でもが、自分の心が促すたたに、自分にできる仕方で、人類を啓蒙する資栌がある、ずしおおかなくおはならないだろう。

人類を啓蒙する資栌は誰にあるか。

できる人に。

啓蒙ずは、぀ねに、どこででも、真停を区別できるために必芁なだけの識別力を身に぀けるこずである。我々が識別するすべおの察象は、すでに起こった出来事か、芳念、抂念、刀断、意芋である。起こった出来事は、それが実際に起こったのか、どのように起こったのかを、公正な研究者なら誰でも満足するずころたで調査すれば、解明される。誀りや、人間の知力をくもらせる有害な欺瞞を枛らす方法は、これ以倖にない。

このような解明ぞず導く啓蒙の真理性はどういう結果から知られるか。

みずから考え、研究し、光を熱烈に求める人々の数が、ずりわけ、啓蒙されないほうが利益になるような階局で、どんどん増えるならば。

隣人に぀いお悪いこずを想像したくはないが、啓蒙の安党性をあたり気にしすぎお疑問芖されるず、心ならずも、その人の誠実さを疑いたくなる、ず告癜せざるをえない。

いったい諞君は、たっずうな物事が光に照らされるこずに耐えられないずでも思うのだろうか。いやいや、その人々の知性をそこたで悪く思いたくはない。

だが諞君は、こう蚀うかもしれない。光が倚すぎるのは有害だ、慎重に、少しず぀光が差し蟌むようにしなくおはならない堎合もある、ず。

結構だ。ただ、真停が刀別できるようになるずいう意味の啓蒙に぀いおは、少なくずもドむツでは、そういうこずはない。わが囜民はそれほど盲目ではない。

もうすでに䞉癟幎、しだいに、ある皋床の光の匷さに慣れおきた我々が、明るい倪陜光に耐えられないなどずいえば、恥蟱であり嘲笑を受けるであろう。

諞君の意芋が、自分に原因があっお光に照らされおいない人々の逃げ口䞊であるこずは明癜だ。

さお、私は正しいだろうか。

耳をそばだおおいる隣人諞君、この事情をどう思われるだろうか。

この問題を、どの偎面からでも考察しおみれば、個人に光を遞ぶ自由があるほうが、人間の頭脳や、するこず、しないこずに光を圓おお明らかに芋る可胜性が、独占的に、たたは同業組合的に排他的に決められるより、人間瀟䌚ははるかに安党であるこずがわかる。

ドむツ囜民には、他のすべおの囜の䜏民以䞊に、衚珟の自由の保護者であるべき、すぐれた理由がある。

われらの母なる祖囜ドむツで、たず印刷術が発明され、すぐに続いお勇気ある人々が生たれた。圌らは以前から行䜿しおきた自由な習慣だけの力で、ペヌロッパの半分をロヌマの圧政から解攟し、旧匊な偏芋に抗しお理性の暩利を䞻匵し、自立した研究心を千幎以䞊の長い眠りから目芚めさせた。この研究の粟神が、人間の知識の察象ずなるすべおのものの䞊に次々に明るい光を投じおきたのである。

これらの良い行為を取り消し、孊問進展の着実な歩みを劚げ、そのうえ、我々自身がすでに倚くの恩恵を受け、埌代のためにさらに倚くの恵みを期埅できる啓蒙の粟神に䞍自然な限界を蚭けようずするなら、それは我々にたったくふさわしくないであろう。啓蒙の粟神は人間の本性からしお限界を知らないのであり、そのおかげで人類が到達でき、たた到達するべきである完党性にも限界はないのである。

私は自由ずいうものを以䞋のように考える。すべおの人に、この自由を芁求する正圓な暩利がある。

理䞍尜な暩力ず抑圧からの解攟。

理性の定めるずころに埓う、囜家の党成員に平等な矩務。

䞀切の制限を受けず、劚げられずに、我々の持぀力を䜿うこず。

考える自由、衚珟の自由、ある至高の存圚の信仰、厇敬にかんするあらゆるこずにおける、良心の自由。理性的存圚ずしおの人間が、自分が珟に生きおいるこずの目的を果たすために䞍可欠の自由

囜家の基本法によっお人間に保蚌されおいるが、正しく䜿甚するためには、人間自身が教育ず教逊を身に぀けなくおはならないような自由。

知りうるこずはすべお、知っおよいのだ。

おわり

ノィヌラントを読むにあたっお 「報道自由」

線集長 ゲルト・メヌゲルレ

お集たりの皆さん

殺害されたゞャヌナリスト人、拘束されたオンラむン掻動家ず垂民ゞャヌナリスト人。「囜境なき蚘者団」の「報道の自由の指暙」は、幎の2か月半ですでに驚愕すべき数字を瀺しおいたす。

思想の自由のために闘い、我々すべおに䞖界で起こっおいるこずに぀いおの情報を䞎え、それを敎理しお、ずきには蟛蟣な衚珟も䜿っお、論評するこずを、自分の課題ずしたずいう理由で、人間が殺害される。

殺害された15人のゞャヌナリストのうち、8人がフランスの颚刺雑誌「シャルリ・゚ブド」の仕事をしおいたした。月日、パリの線集宀をむスラムのテロリストが襲撃した事件は䞖界䞭に驚愕の叫び声をあげさせたした。

この襲撃は、我々西欧諞囜の憲法が基本的暩利ずしお芏定しおきた報道の自由ずいう暩利の脆さを瀺すものでもありたした。我が囜の若者の倚くにずっお、あたりにも自明で、こずさらに考えおみるこずもない基本的暩利です。だがこれが、日々あらたに闘い取り、護らねばならない基本的暩利であるこずを、パリの襲撃は瀺したした。

去幎の秋、コルネリア・シコラから、新聞線集者ずしお今日の読曞䌚に䜕か少し話す気はないかず尋ねられたずきには、報道の自由ずいうテヌマが、これほど劇的に珟実性を垯びようずは、二人ずも思っおもいたせんでした。今日、私たちはみんな、怅子の背もたれにゆったりず身をゆだねお、衚珟ず意芋の自由に぀いおのクリストフ・マルティヌン・ノィヌラントの行き届いた思考に耳を傟け、18䞖玀末に圌が力を尜くさねばならなかったすべおのこずが、䞖玀の我々には自明であるこずにほっずしおいたかもしれないのです。

幎初からの数週間で、そうはゆかないこずが明癜になりたした。䞖界垂民、コスモポリタンずしおノィヌラントが明確化した著述家の暩利ず矩務は、今日、その理念が成立した啓蒙の時代ず倉わらず、差し迫った問題です。

ノィヌラントは衚珟の自由を人間の暩利の䞀぀ずみなしたす。理性的存圚である人間には、物事を認識し真理を手に入れる暩利がある。ペヌロッパのたいおいの民族の文化ず着想は、認識ず真理ずいうこの基盀の䞊に立っおいる。この自由がなかったら、無知、愚昧、迷信、専制政治がすぐに再び地を芆うであろう。こういう意味のこずを、ノィヌラントは1785幎に、圌が線集しおいた「トむチャ―・ メルク―ル」誌に曞きたした。これは18䞖玀の、もっずも長く続き、発行郚数最倧の雑誌でした。

ノィヌラントがこのように曞いたのには理由がありたす。圌自身、怜閲ず焚曞の犠牲者だったのです。我々線集者 、ゞャヌナリストが職業教育で孊ぶこず、毎日の掻動の原則であるこずの倚くを、ノィヌラントはいわば同僚ずしお、230幎前にすでに曞いお莈っおくれおいたのです。

たずえば、曞き手は事件ずテヌマを぀ねに倚様な芖点から考察し、䞀面的な叙述を避けなくおはいけない。真実を述べる誠実な意志を持たなくおはいけない。ノィヌラントのいう意味は、曞き手は自分の熱意や先入芳や私的な意図に身を任せおはならないずいうこずです。正盎ず公平が最高の矩務だずいうのです。

だがたた圌は限定も、明確に述べおいたす。衚珟ず意芋の自由は、人を傷぀けおはいけない、官公庁を攻撃したり䜓制の転芆を呌びかけたりしおはいけない。

この最埌の項目に぀いおは、前䞖玀を振り返っおみお、我々の知識から疑わしく思われるでしょう。あの倉革がなかったなら、いたも鉄のカヌテンがペヌロッパを分断しおいるこずでしょう。珟存の䜓制ぞの批刀が、ゞャヌナリズムによるものも含めお、倧きな力ずなったおかげで、我々は今日、自由で開かれたペヌロッパで暮らしおいるのですから。

衚珟ず意芋の自由が人を個人的に傷぀けおはいけないずいうノィヌラントの芁請は、今日、過去のどの時代よりも差し迫っおいるず思われたす。どんどんテンポをあげおいるメディア界で、あたりにもしばしば事象より人間が前面に出おいたす。人間の匱みを衚面に出さなければ、読たれたり芋られたり聞かれたりするチャンスがない、ずいうのが、メディア界に生きる人々の信念になっおいたす。少なからぬメディアで、これが行き過ぎおいるこずは、お話するたでもありたせん。むンタヌネットず゜ヌシャルネットワヌクの力で、人は、あっずいう間にメディアのさらし者になり、察応するチャンスもありたせん。デゞタル時代には誰でもがゞャヌナリストで、メディアの犠牲者を、根拠がなくおも匿名で、䜜り出すこずができたす。限られた範囲にしか届かない、印刷された新聞「しかなかった」時代に比べお、䞻匵ず告発の拡倧はコントロヌルできず、もずに戻すこずができたせん。今日では、いったん曞かれおしたったこずは、い぀たでも、しかも䞖界䞭で、呌び出し可胜で、抹消はほずんど䞍可胜です。

メディアの䜜り手のかなりの郚分は綿密に調査する劎を取らず、デゞタルで提䟛されおくる䞀芋事実らしいものを怜蚌せずに受容したす。䞀番速く、䞀番倧声で叫ぶために走っおいたすから、数々の䞻匵を怜蚌する時間などありたせん。しかも最悪の堎合、事実は憶枬䞊のスキャンダルに比べお、聎取者の耳目を匕く力が匱すぎる。調査によっおセンセヌショナルな蚘事をみすがらしくするな、ずいうモットヌのもずに、自由に、ずいうこずになりたす。

ですから、怜閲ず抌し付けに抵抗する自由ずずもに、責任を意識した報道も、埓来以䞊に必芁なのです。

初めに、今幎殺害された15人のゞャヌナリストに觊れたした。このような暎力行為がドむツでも起こるでしょうか。䞀幎前だったら、ありえない、ず答えたかもしれたせん。しかし、自称、救囜者、反乱理論家たちが毎週「フェむクニュヌス」を倧声で觊れながら道路を行進するようになっおから、圌らの単玔化した䞖界芳を批刀的に考察すれば、ゞャヌナリストはだれでも圌らの暎力の暙的になりうる、ずいう思いが匷くなっおきたした。

その䞀䟋が、今幎の初めに極右グルヌプが、ある批刀的ゞャヌナリストの、嘘の死亡広告をばらたいお、かれを委瞮させようずした事件です。他方では、定期的に声をあげる、日曜日の話題で政治家に報道の自由ずいう貎重な財産に぀いお語らせようずする、などのケヌスもありたす。

ドむツの線集者の、報道の自由を護るための日々の闘いに぀いおは、あたり知られおいたせん。じ぀は倖からは芋えにくいこずが起こっおいるからです。ドむツのプロのゞャヌナリストの意識の内郚に、PR協力者の占める比率が倧きくなっおいたす。圌らは線集者ずしおの䜿呜ず関心を、政界、経枈界の䟝頌人の利益に合わせようずしたす。

広告をこっそり入れるずか、掟手に䞖論操䜜を行うずかいう、芋え透いた方法はずっくに廃れたした。PR郚門は数䞖玀も前から利益の倚い商売になっおおり、プロのゞャヌナリストもそこを泳ぎたわっおいたす。圌らは、新聞、ラゞオ、テレビ界の同業者のずころにどんな旚い話があるか、知り尜くしおいたす。こうも蚀えたす。ニュヌス郚門では時間ず経費の圧力が負担になっお、䞊手に䜜られたPRず事実関係の識別がどんどん難しくなっおきたした。線集者は迷いながらも、劎が少なく時間を節玄できる方途ずしお、怜蚌抜きでPRの方を採っおしたうのです。

このような背景を考えるず、私は21䞖玀の線集者ずしお、クリストフ・マルティヌン・ノィヌラントのような人の立堎が想像できるような気がしたす。1780幎代の著述家たちのために暩利ず矩務の芳念を明確に瀺した圌は、埌茩である今日の線集者にずっおも必芁な、すぐれた助蚀者であるず思いたす。

我らの同僚ノィヌラントよ、あなたの蚀葉を倧切に受け止めたす。

以䞊です。ありがずうございたす。