始めに
コスモポリタンを公言するヴィーランㇳにとって、表現の自由は、我々の最高の財産の一つである。これらの財産がなかったなら、現在の我々の文化の基盤は形成されえなかったであろう。
今日、我々はふつう、メディアを通じて、本や新聞によるよりもはるかに大量の情報の流れと交換に触れている。
ところが、世界の少なからぬ諸国で、メディアの情報源は操作されているばかりか、最悪の場合、切り貼りさえされている。
この読書会が、我々の自由がどれほど貴重か、それにもかかわらず、どれほど危険にさらされているかを意識し、この自由という財産を守るためには、著述家(もっとも広義の)に、真実をありのままに伝える義務があるとともに、自由で開明された市民一人一人が真実を知る権利を主張しなくてはいけない、ということを自覚する機会になってほしい。
「トイチャー・メルクール」の創刊者、クリストフ・マルティ―ン・ヴィーラントはこの文章を1785―88年に書いた。今日、世界中のメディアの動向と政治情勢の中で読むと、この文章の衝撃力と緊急性があらためて強く感じられる。
Mikiko Nomura
クリストフ・マルティーン・ヴィーラント
コスモポリタン結社の秘密と
著述家の権利と義務について
わたしは一介の無力な世界市民にすぎず、全世界の舞台で上演される、重大な国家間の行動の悲喜劇ないし喜悲劇に大役も端役も演じるものではない。それでもわたしには、一人の人間であるという誉れがあり、したがって人間にかかわるすべての物事に、多かれ少なかれ関心を抱かざるをえないのであるから、この上なく興味深く、比べるものなく重要なこのドラマにも、幕開けからきわめて注意深く熱烈な観客役を演じずにはいられない。
わたしが支持を公言している結社のおかげで、人間の権利と義務についても、わたしはかなり独特な考えを抱いている。
あるコスモポリタンの言うところでは、自然は人間一人一人に独自の素質を与えておいたのであり、さまざまなことがらが関連しあって、その素質が展開して、その人が将来なるべき存在が実現するために多かれ少なかれ好適な環境に、一人一人を置くことになる。ただし自然は、自分の素質を育て完成させることは本人に委ねている。自然が不十分な、さらには欠陥のある状態で与えたものを改良し完全の域に高めることが、人間に与えられた役割である。それはその人自身の利益でもあるのだから、ある意味で限界のない、自分なりの完全性にできる限り近づくよう努めること以上に大切なことのあるはずはない。
人間の生涯の計画は本人だけで決められるのではなく、世界の至高の統治者である神が、その人間をどのように用いようと思われても、喜んでそれに従う心の用意が求められるのであるから、人間の第一の義務は、最大限の有用性を身につけることである。この意味の高度の有用性を、それが訓練、勤勉、努力、根気、つまりは我々自身の意志にかかっている限りにおいて、コスモポリタンは美徳とよび、その理想を物差しとして人の価値を評価する。以上に述べたことから、世界市民と世界住民との相違が明らかになる。住民は、すべての人間のみならず、人間の下に位置付けられる、すべての段階の動物にも与えられる呼称であるが、この世界の市民と、もっと狭い、高級な意味で、称してよいのは、その人の根本的思想、信条が自然とずれることなく合致することによって、有用になりえている人間だけである。
コスモポリタンの結社のもっとも重要な基本原則の一つはこうである。すべての形成、発展、完全性への前進は、自然で穏やかで、一瞬一瞬は見て取れないような運動、養分補給、生長をつうじて行われ、実現に至るのでなくてはない。それが物事の道徳的秩序である。自然の正常な進行に従うなら、ずっと長い時間をかけて生じるはずのことを、飛躍を重ねて短期間に引き起こそうとするような、すべての力ずくの手段、さまざまな力の均衡を突然乱すような、すべての行動、ある事態を生じさせるために必要十分な力の程度が計算できず、必要をはるかに超えることをしてしまう危険を招くような、すべての激しすぎる働きかけ、要するに、過度の熱意や一面的な考え方や過大な要求から生じる、平穏をかき乱す作用はすべて、結局は何か良いことをもたらすかもしれないとしても、同時にそれと同じだけの善を破壊することになり、偉大なことを目指すことによって、たいていはもっと大きい悪を招いてしまうのである。
コスモポリタンは、善いものをすべて善いとする、最高の善意を持つので、国家の責任を担う人々の方策や行動をつねに賛美、喝采することはできず、彼らの弱点、不徳、失策、一貫性の欠如などを鋭敏に見て取り、真剣に不同意を唱える。要するに、コスモポリタンは、憲法、立法、警察、経済、つまり大きいことも小さいことも含めて国家経営の全体の欠陥を(場合によっては、これらの欠陥を取り除く手段をも)見抜き、欠陥が実際に取り除かれることこそを、何よりも熱烈に望むのである。だが、コスモポリタンは利己的な、あるいは党派的な動機から、または何かの口実をつけて、社会の平穏を乱したり、何かを改良するために不法で暴力的な手段を用いたりすることは決してない、と信頼してよい。
コスモポリタンが謀反、反乱、内戦の扇動に意図的に加わったことは一度もないし、世界を改良するためであれ、この種の手段を是認したこともなく、まして、これらを勧めたり、正当化を企てたりしたことなどない。コスモポリタンは、世界の現状に満足できないとしても、その結社の本質をなす義務に従って、つねに冷静な市民でいる。
コスモポリタンは、自分が住む国家の法律を、その賢明性、公正性、公益性が明らかであれば、世界市民として、すべて守り、必要であればその他のことにも従う。
コスモポリタンは自国民に好意を抱くが、他のすべての人々にも同様の好意を抱く。祖国の豊かさ、名声、重要性を他の国家に対する意図的な詐欺行為や抑圧の上に築こうなどと企てることはありえない。人間を宇宙の主役と認めるか、それとも偶然の無意味な玩具、目的も意味も脈絡もない、ただの夢とみなすか、この両極端のどちらからも、コスモポリタンは同じく遠いところにいる。彼らは理性の優位を信じる。人間は、組み立てられ命を与えられた物質として理解を超える力に使われる盲目の道具なのではなく、宇宙の微小な存在ではあっても、思考し意欲を持ち、みずから活動する一つの力である、と信じる。
抵抗は結社の義務の一つでさえあるが、ただし合法的な方法で行われることが条件である。理性が、そのさい使用を許される唯一の武器である。このような性質の闘争では、防御にも攻撃にも可能な限りの知性、知恵、不屈、率直、根気が示される。
ありとあらゆることをしても、コスモポリタンの義務を十分に果たしたという以上の何物でもない。
だが、優れた意見を持つ人々や抑圧されている人々の先頭に立つ熱烈な指導者が、結果的に必ず国家を動揺させるに違いない方法をとるとき、また彼らの目指す改革を、それ自体の価値より高価に、無数の人々の家庭の幸福、豊かな暮らし、生命を代価として、買い取ろうとするとき、それを見て取ればただちにコスモポリタンは身を引く。そして、すべてのことに節度を命じる理性の声が聞かれなくなるときには、意に反して損害を引き起こす危険を冒す前に、むしろすべての活動から離れる。狂信的な党派心の荒れ狂う運動、ほしいままな軍事力の猛烈な戦いに踏みにじられるなら、一切は瓦礫となり、人間性は侮辱されて解放と復讐を求めることになるだろう。こうしたすべてをもっと良い設計図に従って再建する時が来るまでは、彼らは二度と行動しないであろう。
コスモポリタンは世界市民という名称を本来の高貴な意味で名乗る。彼らは、地球上のすべての民族を単一の家系の子孫と、そして宇宙を一つの国家とみなす。他の無数の理性的な人々とともに、彼らもその国家の市民であり、そこでは各々が固有の仕方で自分自身の幸福のために働くことによって、普遍的な自然法則のもとに全体の完全性を高めてゆくのである。
こうしたこと全体の秘密は、宇宙の非常によく似た存在同士の間に生まれる親和性と共感に、また、真実、善意、誠実な心が高貴な人間を結び付ける精神的な絆にある。
他のどんな人間社会よりすぐれた秩序と調和をもつ共同体が生まれるための、これ以上強力な絆を私は知らない。
「この結社の目的は、人間性を圧迫する悪の総体を、みずから不幸を造り出すことなく、できるかぎり減らし、世界の善の総体を、全力をあげて増し加えることである。」
コスモポリタンの主張するところでは、何一つ異論の余地のない統治形態はただ一つしかない。それは理性の統治形態である。その本質は、理性的な民族が理性的な統治者と理性的な法律によって統治されることである。
念を押すまでもないであろうが、理性的という語がここでは、その本来の意味で使われている。すなわち、理性が実際に働き、理性の正当な権利として、人間性に含まれる動物的な部分を完全に支配している、という意味である。
世界の幼児期と言える太古の時代、理性は大部分、本能として働いていた。人間は、経験にかんしてはまだ幼児で、感覚的で活発、軽率で落ち着きがなく、いつも今の瞬間しか気にかけず、子どもらしく、未来のことや、現在のことの当然ながら徐々にやってくる結果を予想することはなかった。
太古の時代の民族の中に、自由の価値を相応に評価できるものはほとんどいなかったし、自由と市民的秩序、戦争の技術と平和の技術とを結びつけて考えることのできるものはさらに少なかった。
時とともに、周知の原因の、同じく周知の効果が生じてくる。個別の技術と科学が、着想、活動、たゆまぬ勤勉、競合から生じる競争心などが育って急速に進歩したのに比して、最高の技術、技術の王である、諸民族を立法と行政によって幸福な状態にするという技術の方は、はるかに遅れている。
今なお、ヨーロッパの中でも比較的広く美しい地方で、人間の持つもっとも高貴な能力が重圧の下に窒息させられている。長く続いた粗暴で暗黒な時代の、未熟な制度、無知、過誤が残っているのである。今なお、いくつかの強国では王権が論じられ、比較検討されることはなく、市民社会の基本法にのっとって定められることもない。今なお、普遍的理性ではなく、唯一者の、あるいは暴力で権威を手にした少数者の、しばしば極めて愚かしい知力とぐらついて定まらない意思が法律を作っている国家がある。
「最悪なのは、我々がものを書くことによって、ただ一人の破廉恥漢がこの世から消えることもなく、我々のほうが命を失う可能性があるということである。」
法の執行とよばれるものは、大部分の国々でなお、未熟で筋が通らず、時代と状況に適合しない法律によって損なわれている。多数の国家でなお、市民の財産、名誉、自由、生命の安全ほど不確かなものはない。これがすべてヨーロッパのことである!
この一世紀の比較的短期間に、芸術、学問、趣味、啓蒙、洗練が数段階も高まった。この高みから過去の数世紀を見下ろせば眩暈がしそうである。だがこれらの重要で、しかも幸いなことに、きわめて本質的な点においてさえ、ヨーロッパの現状は(我々の信じるところが思い違いでないなら)有益な革命に近づいているようにみえる。
それは、独りよがりの反乱や内戦によるのではなく、冷静で揺るぎない、確固として粘り強い、義務の上に立つ抵抗による革命、激情と激情との堕落した格闘によるのではなく、穏やかで説得力のある、結局は抵抗できない、理性の優位によって、実現される革命である。
すなわち、ヨーロッパを人間の血の海にしたり、火炎で焼きつくしたりせず、人間に、彼らの本当の利益、権利と義務、自分の存在の目的、そしてその目的に確実に誤りなく到達するための唯一の手段を教えるという、有益な作業となる革命である。
以上述べてきたことから明らかであろうが、コスモポリタンは、現存の統治形態を、永遠に存続する「万人の幸福の神殿」を建設するための足場に過ぎないものであり、過去のすべての時代は、ある意味で、この建設に携わってきたのだ、と考える。
専制政治は、コスモポリタンの考えでは、野蛮な統治形態であり、それが長続きするためには、ヨーロッパの開明された諸国民には想定もできないような状態と条件が前提となる。だいたいが専制政治というものは、ヨーロッパでは文化と啓蒙以前の時代にさえ知られていなかった。太古以来、野生の民族にとっても、教育を受けたヨーロッパ人にとっても、自由こそ根本原理だった。
理性の永遠の法則、人間の本質である権利を知りながら、この権利を主張、要求する機会を諦めたり見逃したりなおざりにしたりすることは許されない。今日のヨーロッパ諸国の建設者はすべて、自由な人々の先頭に立って進んだのだった。
どのような政治体制下に暮らしていようとも、人間が第一に要求しなくてはならないもの、そして頑強な専制君主のみが人間に許すまいとする第一のものは、人間であることである。人間は奴隷であれば、人間でありえない。もっとも理性的な体制と統治はゆっくりとした、だがそれだけ確固とした足取りで、諸国民に近づいてくる。その歩みを速めることができるのは、理性の可能な限りの育成、基本的真理の可能な限りの普及、そして公表することが個々の社会、国家、人間の各世代を益するような、すべての事実、観察、発見、研究、改良の提案、害悪への警告の可能な限りの公開だけなのであるから、コスモポリタンは表現の自由こそ、これらすべてを成し遂げるために不可欠な、今日の真の、人間の守護神とみなす。これを護ることに、よりよい未来へのすべての希望がかかっており、これを失えば、予測もつかない悪の長く恐ろしい継続を招くであろう。
旅行者がその途上で収集した観察と報告を、友人宛の、あるいはむしろ読者宛の、手紙の形の書物が非常に多く出版されている。旅行好きな著述家やまめに手紙を書く旅人にとって自然な形式である、この種の書物への読書好きな世人の欲望が日ごとに大きくなっているからには、かなりの数の人々が、このような書物は、著述家が自分の観察、報告、判断を公表する際の資格と自由の限界を測る、信頼できる物差しと見なしているのだろう。
この物差しの尺度は以下にあげる真理に含まれていると思う。私が自信をもって、これらを真理と称するのは、私自身それを確信し、また、ふつうに明晰で、物事をじっくり考えることのできる頭脳の持ち主には納得がゆくに違いないと信じるからである。
表現の自由は全人類の関心事であり、利益である。
ヨーロッパ諸民族が現在立っている文化と開明の段階の高さは、おもに表現の自由のおかげである。この自由を我々から奪ってみよ。現在我々が楽しんでいる光はすぐに再び消える
であろう。無知はすぐに再び愚昧に変わり、愚昧は我々を再び迷信と専制政治の手にゆだねるであろう。諸民族は長く続いた暗黒時代の野蛮状態に戻るだろう。そのとき、人類の抑圧者がなによりも隠しておこうとする真理を、あえて口にする者が現れれば、異端者、反逆者と呼ばれ、犯罪者として罰せられるであろう。
表現の自由は、それが諸国民の権利であるという理由だけによっても、著述家の権利である。そして表現の自由は、理性的存在としての人間にとって、人間の完全性を増大するために何かしら役立つすべてのことについての真の知識以上に重要な利益はないという理由だけからしても、人間の権利である。学問は人間の知力にとって、我々の目にとっての光に等しいものであるから、自然自身が我々に対して定めた限界以外の、どのような限界内にも閉じこめることはできないし閉じこめてはいけないのである。すべての学問の中でもっとも必要で役に立つ学問、他の学問がすべてそこに含まれる学問は、人間にかんする学問である。
人類固有の学問対象は人間である。
人間にかんする学問は、今後なお長く、完全で明快な解決を目指して努力しなくてはならない。その解決に着手し、推し進め、つぎつぎに先へ進むことが人間研究の課題である。人間に何が可能であるかを明らかにするためには、人間とは実際に何であり、何をなしとげてきたかを知らねばならない。
人間の状態を改良し、その欠陥を除去するには、どこが悪く、その原因が何であるかを、まず知らねばならない。
したがって人間にかんする真の知識は根本的に歴史的である。
諸民族の過去と現在の状態を追い、事実と事件とを結びつけて、それらがどのようにつながりあい、一つのことの影響または結果が、どのように別のことの誘因または原因になるかをたどる歴史。このように考えるなら、人間の歴史とは、人間に起こったこと、つねに起こっていることの記述にほかならに。どこまでも続く、一つの事実の記述。それを達成する方法は、目を開けて見ること、そして、見るべきものを見る機会を他の人よりも多く持った人が、その観察を他の人々に伝えること以外にない。
このような観点から、船員、放浪者、旅行者、歩行者、学者、無学者たちが(無学者にも観察力があり、しばしば職業的な学者より健全な目でものを見ることができるのだから)書いた、地理学と民族学、つまりは人間学にかんする文書を評価しなくてはならない。こう考えれば、これらの文書の価値が理解され、これらを多数、人間学のための公共文書館に保存することの、人類全体、各民族、各国家組織、各個人にとっての重要性が認識される。
目撃者は、その意思にかかわらず、ものの見方を誤ることがある。耳にしたことを信頼できると思う人に伝達するとき、その情報が間違っていたということもある。どれほど細心で鋭利な観察者でも、すべての人間同様、錯誤の可能性を免れないし、重要な状況を見過ごすことがありうる。
したがって、ある時代の民族、国家、風習などを歴史的に描いた書物が、真実を語ろうとする、どれほど純粋な意図から出ていようとも、すべての不正確を完全に免れていることはほとんどありえない。ある人が経験不足から、あるいは漠然とした観念や好みのせいで、時に物事の見方や判断を誤ることもありうる。だからといって、世人に有益な、あるいは将来有益になりうる書物を、一切刊行してはならないと結論しては不合理であろう。
以上から言えるのは、書物が述べていることを自分のほうがよく知っていると思う人、あるいは著者の誤りを発見し、訂正できると思う人には、そうする十分な資格があるばかりか、そうすることで世界に奉仕する、一種の義務さえある、ということだけである。
とくに大国、わけても我がドイツのように、きわめて多様で異質な国民が、計画的に組織されたというよりは、むしろ偶然に集まって形成された国家組織では、現状をできるかぎり精確に知ることが国民にとって重要である。
国家財政、警察、市民生活、軍隊制度、宗教、風習、公教育、科学、芸術、商業、農業などの現状、また文化、啓蒙、人権保護、職業活動、向上意欲などが到達している段階に、独自の光を投じるような書物は今なおわずかしかない。この種の書物はいずれも高く評価されるべきであり、感謝に値する。
自分の観察から一冊の書物を提供しようとする著述家に何よりも肝要なものは、真実を述べ、一時の激情、先入観、私的利害などの影響を、報告と意見の中に入れないようにする、誠実な意志である。
著述家の第一の義務は誠意と公平である。この義務を果たすための必要条件はすべて、権利でもあるのだから、率直さもまた、このレベルの著述家にとっては疑問の余地のない権利である。著述家は真実を述べることを欲しなくてはならないし、そうすることを許されなくてはならない。
したがって著述家には、ある民族についての観察を我々に伝えようとするなら、見たことのすべてを語る完全な権利がある。善いことも悪いことも、誉めるべきことも非難すべきことも。何かを隠したり、お世辞で美化したりして、好ましい面だけを描いた偽りの画像では、世界の役に立たない。
自分のあるがままの姿を描かれたからといって、侮辱されたと思うわけにはゆかない。ある人物に対して公開の場で、その欠点を口にすることを礼儀は禁じるが、人間一般について、または、大国であれ小国であれ、国民と国家について語ろうとする著述家にとっては、その礼儀は義務ではない。
ある国民が、非難されるべきことは何一つなく、すべての面から見て完全であると評価されたがるなら、それは不当な要求であり、世界の笑いものになるであろう。
万一、判断力のある観察者が、その国民について何一つ批判できない、などということがあれば、たしかに、非の打ちどころがないのであろうが。
君主が自分の品位と職務にかんしてしかるべき感受性を持っていれば、おべっかを軽蔑し、自分にとって不愉快な真実を述べる勇気のある人物こそ誠実なのであると認めるであろう。
「最良の領主は、領民のうちに最良の人間がいることを、最大の願いとする。」
たしかに、そのような支配者なら、後世が遠慮なく言うであろうことを、それを聞いて、そこから利益を引き出せるうちに、控えめに知らせてくれる人を悪く思うことはないであろう。
そこで、人間がものを考える力を持つかぎり、ルソーやヴォルテールのような人、その他、知識階層に影響力を持つ人々こそ、彼らの時代の創造者とも本来の君主ともみなされるべきであろう。
このような場合に、全国民または全社会からの敬意を求める方法は、礼儀正しい表現で、誇張したり侮辱したりからかったりせずに、彼らが気づいていない側面について語り、彼らの長所や褒めるべきことのすべてにも触れることによって、公平性を証明することだけである。
国民や時代についての正しい知識を手に入れるには、主として、それらが他と違うところ、その特徴を知ることが必要である。特徴は普通、完全さと欠点に同じように、いやむしろ後者のほうにいっそう明らかに、見て取れる。
適度であれば褒められる性質が、過剰であるばかりに欠点になることがよくある。たとえばエレガンスの過剰が装飾過多になるように。この種の欠点の指摘は侮辱ではなく、どこをどうすれば、もっとよくなり、賞賛に値するようになるか、のヒントを与えるもので、感謝されてよい。
自然が鋭敏な感覚と精神の活気を与えておいた、とらわれるところのない観察者は、どこに行っても、いたるところで、人々がすること、しないこと、人々の特異性、歪み、凡庸さを見て取る。そして、笑いものにしようという意図はまったくなくても、滑稽なものごとには笑ったり微笑んだりせずにはいられない。
「滑稽な欠点しか持たない国はさいわいである。」
ある大国から別の、制度、国民性、風習が際立って異なる大国に、たとえば軍事国家から、平和と平和の技術のおかげで豊かな国に入った人は、両国の相違のすべてに気づきやすい。それがその人の目をもっとも強く惹くからである。したがって、その人が、両国それぞれの特徴を対比、比較したがるのは、まったく自然な成り行きである。
研究してはいけない学問の対象や、信じるに値するかどうかを見るために理性が調べてはいけない信仰箇条がないのと同様に、禁じたり、非常識だと決めつけたりしてよい、歴史上の事実や実生活上の事実もまたない。
全世界の目の前にあるものごとを国家機密であると主張したり、多数の人が見聞きし感じていることを、誰かが世界中に弘めたからといって腹を立てたりするのは、不合理である。
コスモポリタンが他の秘密結社と異なる点は、隠すべき秘密を持たず、原則と信念からして秘密を作らないことである。
彼らが、どのように考え、何を企て、どういう道を行くか、全世界が知ってよいのだ。
仰々しい顔で人形に服を着せたり脱がしたり、盲目の牝牛のまねをしたり針を隠したりするような者に、どんな知恵が期待できるか、と彼らは言う。
うわべだけの理由を持ち出して、表現の自由を気ままに制限することが必要だ、と偽り主張することも、同じく不合理である。著述家、書店、印刷所の表現の自由に対して、民法、刑法が定めている以外の制限を課してはならないということは、絶対に証明済みである。すなわち制限されるのは、法治国家において、その国で個人の自由がどれほど大きかろうと、それを刊行することが犯罪とされる書物である。これは、ことがらの性質からして、そうあらねばならない。
まず、著名な個人、または人名を明示した個人に対する、民法で禁じられている、あからさまな名誉棄損を含むすべての書物。
法律に基づいて設置されている役所に対する反乱、暴動を明白に煽動しようとする書物。
国家の基本法に明白に反する書物。
すべての宗教、道徳、市民生活の秩序転覆を明白に目指す書物。すべてこれらの書物は、どんな国家においても、国家反逆、窃盗、謀殺同様、たしかに処罰に相当する。
前記の「あからさまな」、「明白に」は決して冗語ではない。これらの語の重要性は、告発された書物の処罰相当性が完全にここにかかっているからである。もしも、任命された検閲官や民事裁判官に、彼らの想像力、意見、先入観、知性の程度、その書物の主題にかんする知識の有無、感情、趣味などに左右される結論のみに基づいて、一冊の書物を裁くことが許されるとしたら、断罪される心配のない書物があるだろうか。
勝手気ままな検閲がまかり通っている諸国では、もっともすぐれた書物こそ、一番先に禁書目録に載せられることを、我々は経験から知っているではないか。
≪挿入
「戯曲が検閲を受けるとしたら、どういうことになるか、考えてみたことがおありだろうか。どの作品が上演できなくなるか。」
「ダントンの死」、「薔薇の名前」、「ドン・カルロス」、「ヴィルヘルム・テル」、「リチャード三世」、「女教皇ヨハンナ」、「神の代理人」、「春の目ざめ」、「群盗」、「狂おしい一日(フィガロの結婚)」、「公然告発者」、「マクベス」、「マラー/サド劇」、「インゴルシュタットの煉獄」、「アルトゥロ・ウイの興隆」、「ビーダーマンと放火者」、「ジュリアス・シーザー」、「ミハエル・コールハース」、「悪魔の詩」、「革命はいまだ成らず」、「こわれがめ」・・・≫
裁判官なり検閲官なりに、犯罪的とみなされている書物の検討をゆだねるとしよう。彼らが、それを刊行したことで著者が罪を犯したとすでに決定している書物のみを禁じるということも、つねにありうる。
だがその内容について、古いか新しいか、興味深いか取るに足りないか、有益か有害か、作者の論評は良いか悪いか、このような判定は、読者以外の検閲官がしてはいけない。
まして何かの口実を設けて、権力で書物を抑圧するなら、学者共和国の根本的権利を侵害することにならざるをえない。
学問、文芸、印刷術は、アルファベットの発明以来なされた、すべての発明の中でもっとも高級で有益なものであって、どこかの国家の所有物ではなく、全人類の共有物である。
その価値を理解し、受け入れ、育成、奨励、保護し、自由に、妨げることなく活動させる民族は幸いである。自由こそ、これらに不可欠の要素だからである。
どんな人間の法廷にも、我々が享受できる知の光を、気ままに好きなように定める権限はなく、それは越権行為なのであるから、ソクラテスやカントから、超自然的な啓示を受けた仕立屋や靴屋まで、誰でもが、自分の心が促すままに、自分にできる仕方で、人類を啓蒙する資格がある、としておかなくてはならないだろう。
人類を啓蒙する資格は誰にあるか。
できる人に。
啓蒙とは、つねに、どこででも、真偽を区別できるために必要なだけの識別力を身につけることである。我々が識別するすべての対象は、すでに起こった出来事か、観念、概念、判断、意見である。起こった出来事は、それが実際に起こったのか、どのように起こったのかを、公正な研究者なら誰でも満足するところまで調査すれば、解明される。誤りや、人間の知力をくもらせる有害な欺瞞を減らす方法は、これ以外にない。
このような解明へと導く啓蒙の真理性はどういう結果から知られるか。
みずから考え、研究し、光を熱烈に求める人々の数が、とりわけ、啓蒙されないほうが利益になるような階層で、どんどん増えるならば。
隣人について悪いことを想像したくはないが、啓蒙の安全性をあまり気にしすぎて疑問視されると、心ならずも、その人の誠実さを疑いたくなる、と告白せざるをえない。
いったい諸君は、まっとうな物事が光に照らされることに耐えられないとでも思うのだろうか。いやいや、その人々の知性をそこまで悪く思いたくはない。
だが諸君は、こう言うかもしれない。光が多すぎるのは有害だ、慎重に、少しずつ光が差し込むようにしなくてはならない場合もある、と。
結構だ。ただ、真偽が判別できるようになるという意味の啓蒙については、少なくともドイツでは、そういうことはない。わが国民はそれほど盲目ではない。
もうすでに三百年、しだいに、ある程度の光の強さに慣れてきた我々が、明るい太陽光に耐えられないなどといえば、恥辱であり嘲笑を受けるであろう。
諸君の意見が、自分に原因があって光に照らされていない人々の逃げ口上であることは明白だ。
さて、私は正しいだろうか。
耳をそばだてている隣人諸君、この事情をどう思われるだろうか。
この問題を、どの側面からでも考察してみれば、個人に光を選ぶ自由があるほうが、人間の頭脳や、すること、しないことに光を当てて明らかに見る可能性が、独占的に、または同業組合的に排他的に決められるより、人間社会ははるかに安全であることがわかる。
ドイツ国民には、他のすべての国の住民以上に、表現の自由の保護者であるべき、すぐれた理由がある。
われらの母なる祖国ドイツで、まず印刷術が発明され、すぐに続いて勇気ある人々が生まれた。彼らは以前から行使してきた自由な習慣だけの力で、ヨーロッパの半分をローマの圧政から解放し、旧弊な偏見に抗して理性の権利を主張し、自立した研究心を千年以上の長い眠りから目覚めさせた。この研究の精神が、人間の知識の対象となるすべてのものの上に次々に明るい光を投じてきたのである。
これらの良い行為を取り消し、学問進展の着実な歩みを妨げ、そのうえ、我々自身がすでに多くの恩恵を受け、後代のためにさらに多くの恵みを期待できる啓蒙の精神に不自然な限界を設けようとするなら、それは我々にまったくふさわしくないであろう。啓蒙の精神は人間の本性からして限界を知らないのであり、そのおかげで人類が到達でき、また到達するべきである完全性にも限界はないのである。
私は自由というものを以下のように考える。すべての人に、この自由を要求する正当な権利がある。
理不尽な権力と抑圧からの解放。
理性の定めるところに従う、国家の全成員に平等な義務。
一切の制限を受けず、妨げられずに、我々の持つ力を使うこと。
考える自由、表現の自由、ある至高の存在の信仰、崇敬にかんするあらゆることにおける、良心の自由。理性的存在としての人間が、自分が現に生きていることの目的を果たすために不可欠の自由
国家の基本法によって人間に保証されているが、正しく使用するためには、人間自身が教育と教養を身につけなくてはならないような自由。
知りうることはすべて、知ってよいのだ。
おわり
ヴィーラントを読むにあたって 「報道!自由?」
編集長 ゲルト・メーゲルレ
お集まりの皆さん
殺害されたジャーナリスト15人、拘束されたオンライン活動家と市民ジャーナリスト160人。「国境なき記者団」の「報道の自由の指標」は、2015年の2か月半ですでに驚愕すべき数字を示しています。
思想の自由のために闘い、我々すべてに世界で起こっていることについての情報を与え、それを整理して、ときには辛辣な表現も使って、論評することを、自分の課題としたという理由で、人間が殺害される。
殺害された15人のジャーナリストのうち、8人がフランスの風刺雑誌「シャルリ・エブド」の仕事をしていました。1月7日、パリの編集室をイスラムのテロリストが襲撃した事件は世界中に驚愕の叫び声をあげさせました。
この襲撃は、我々西欧諸国の憲法が基本的権利として規定してきた報道の自由という権利の脆さを示すものでもありました。我が国の若者の多くにとって、あまりにも自明で、ことさらに考えてみることもない基本的権利です。だがこれが、日々あらたに闘い取り、護らねばならない基本的権利であることを、パリの襲撃は示しました。
去年の秋、コルネリア・シコラから、新聞編集者として今日の読書会に何か少し話す気はないかと尋ねられたときには、報道の自由というテーマが、これほど劇的に現実性を帯びようとは、二人とも思ってもいませんでした。今日、私たちはみんな、椅子の背もたれにゆったりと身をゆだねて、表現と意見の自由についてのクリストフ・マルティーン・ヴィーラントの行き届いた思考に耳を傾け、18世紀末に彼が力を尽くさねばならなかったすべてのことが、21世紀の我々には自明であることにほっとしていたかもしれないのです。
年初からの数週間で、そうはゆかないことが明白になりました。世界市民、コスモポリタンとしてヴィーラントが明確化した著述家の権利と義務は、今日、その理念が成立した啓蒙の時代と変わらず、差し迫った問題です。
ヴィーラントは表現の自由を人間の権利の一つとみなします。理性的存在である人間には、物事を認識し真理を手に入れる権利がある。ヨーロッパのたいていの民族の文化と着想は、認識と真理というこの基盤の上に立っている。この自由がなかったら、無知、愚昧、迷信、専制政治がすぐに再び地を覆うであろう。こういう意味のことを、ヴィーラントは1785年に、彼が編集していた「トイチャ―・ メルク―ル」誌に書きました。これは18世紀の、もっとも長く続き、発行部数最大の雑誌でした。
ヴィーラントがこのように書いたのには理由があります。彼自身、検閲と焚書の犠牲者だったのです。我々編集者 、ジャーナリストが職業教育で学ぶこと、毎日の活動の原則であることの多くを、ヴィーラントはいわば同僚として、230年前にすでに書いて贈ってくれていたのです。
たとえば、書き手は事件とテーマをつねに多様な視点から考察し、一面的な叙述を避けなくてはいけない。真実を述べる誠実な意志を持たなくてはいけない。ヴィーラントのいう意味は、書き手は自分の熱意や先入観や私的な意図に身を任せてはならないということです。正直と公平が最高の義務だというのです。
だがまた彼は限定も、明確に述べています。表現と意見の自由は、人を傷つけてはいけない、官公庁を攻撃したり体制の転覆を呼びかけたりしてはいけない。
この最後の項目については、前世紀を振り返ってみて、我々の知識から疑わしく思われるでしょう。あの変革がなかったなら、いまも鉄のカーテンがヨーロッパを分断していることでしょう。現存の体制への批判が、ジャーナリズムによるものも含めて、大きな力となったおかげで、我々は今日、自由で開かれたヨーロッパで暮らしているのですから。
表現と意見の自由が人を個人的に傷つけてはいけないというヴィーラントの要請は、今日、過去のどの時代よりも差し迫っていると思われます。どんどんテンポをあげているメディア界で、あまりにもしばしば事象より人間が前面に出ています。人間の弱みを表面に出さなければ、読まれたり見られたり聞かれたりするチャンスがない、というのが、メディア界に生きる人々の信念になっています。少なからぬメディアで、これが行き過ぎていることは、お話するまでもありません。インターネットとソーシャルネットワークの力で、人は、あっという間にメディアのさらし者になり、対応するチャンスもありません。デジタル時代には誰でもがジャーナリストで、メディアの犠牲者を、根拠がなくても匿名で、作り出すことができます。限られた範囲にしか届かない、印刷された新聞「しかなかった」時代に比べて、主張と告発の拡大はコントロールできず、もとに戻すことができません。今日では、いったん書かれてしまったことは、いつまでも、しかも世界中で、呼び出し可能で、抹消はほとんど不可能です。
メディアの作り手のかなりの部分は綿密に調査する労を取らず、デジタルで提供されてくる一見事実らしいものを検証せずに受容します。一番速く、一番大声で叫ぶために走っていますから、数々の主張を検証する時間などありません。しかも最悪の場合、事実は憶測上のスキャンダルに比べて、聴取者の耳目を引く力が弱すぎる。調査によってセンセーショナルな記事をみすぼらしくするな、というモットーのもとに、自由に、ということになります。
ですから、検閲と押し付けに抵抗する自由とともに、責任を意識した報道も、従来以上に必要なのです。
初めに、今年殺害された15人のジャーナリストに触れました。このような暴力行為がドイツでも起こるでしょうか。一年前だったら、ありえない、と答えたかもしれません。しかし、自称、救国者、反乱理論家たちが毎週「フェイクニュース」を大声で触れながら道路を行進するようになってから、彼らの単純化した世界観を批判的に考察すれば、ジャーナリストはだれでも彼らの暴力の標的になりうる、という思いが強くなってきました。
その一例が、今年の初めに極右グループが、ある批判的ジャーナリストの、嘘の死亡広告をばらまいて、かれを委縮させようとした事件です。他方では、定期的に声をあげる、日曜日の話題で政治家に報道の自由という貴重な財産について語らせようとする、などのケースもあります。
ドイツの編集者の、報道の自由を護るための日々の闘いについては、あまり知られていません。じつは外からは見えにくいことが起こっているからです。ドイツのプロのジャーナリストの意識の内部に、PR協力者の占める比率が大きくなっています。彼らは編集者としての使命と関心を、政界、経済界の依頼人の利益に合わせようとします。
広告をこっそり入れるとか、派手に世論操作を行うとかいう、見え透いた方法はとっくに廃れました。PR部門は数世紀も前から利益の多い商売になっており、プロのジャーナリストもそこを泳ぎまわっています。彼らは、新聞、ラジオ、テレビ界の同業者のところにどんな旨い話があるか、知り尽くしています。こうも言えます。ニュース部門では時間と経費の圧力が負担になって、上手に作られたPRと事実関係の識別がどんどん難しくなってきました。編集者は迷いながらも、労が少なく時間を節約できる方途として、検証抜きでPRの方を採ってしまうのです。
このような背景を考えると、私は21世紀の編集者として、クリストフ・マルティーン・ヴィーラントのような人の立場が想像できるような気がします。1780年代の著述家たちのために権利と義務の観念を明確に示した彼は、後輩である今日の編集者にとっても必要な、すぐれた助言者であると思います。
我らの同僚ヴィーラントよ、あなたの言葉を大切に受け止めます。
以上です。ありがとうございます。